「こうじゃないですか」て問いを断定と感じて逃げ出せば被ストーク体質。
相手の考え方を取り込み、自分なりに消化して発展した形を見せたいのと。相手そのものを求めるのとを混同すれば、いつも結果は哀しい
高校のときの合唱の思い出として前に書いた 高田敏子 美しいものについて
(もとは あなたに
収録 ) より、表題作 美しいものについて
花は咲く 誰がみていなくても 花のいのちを美しく咲くために 小鳥は歌い 空を飛ぶ 小鳥は小鳥をよろこび生きるために 樹は茂る 魚は泳ぐ 樹であり 魚であることのために 人は 人であるそのことのために生きているかしら? 人は人であるそのことを いつも思って要るかしら? きのう 私がしたこと きょう 私がしようとすること 人であるそのことにかたく結ばれているかしら? 樹や花や小鳥や魚のように-- 人であるそのことを美しく生きているかしら? 樹や花や小鳥や魚を 美しいと ただ見るだけではなくて
幻視・幻聴はそれほど珍しくない、小学校のクラスにひとり・ふたりいる体質。思い起こせば私も小学生のころは入眠時に幻聴を友人の声で聴いていた、怖くない。そんなことを一年と少し言っている。
だが実際、先月はつか頃に久々に幻聴に襲われてから恐れていたらしい。声を認識したときには感情的にならず聴いていたが。以降も現実の発話者と一致すると決めつけたりもしなかったが。
自分がそんな発言内容を恐れているとも望んでいるとも考えづらく、面倒くさくなって、それ以降。部屋にいるときには静寂が部屋を覆わないように、暗闇が部屋を覆わないようにと過ごしていたのに、昨日気づいた。
入眠前でなかったせいもあるだろうが。あせっていたらしい。私らしくもない。