2010-07-20

無宗教という信仰

11日に父の遺体を焼いて、喪主を務めました。

生前、父から何度もこっそり言われたのが「俺の葬式は無宗教で」。実現する運びになり、つくづく思いましたよ。もっとも贅沢じゃないかと。

いままでどの宗教、どの心理学、哲学を学んでも、分析の (つまり心を落ち着かせる) ための手法を学ぶだけで帰依するわけにはいかなかった。これからも帰依するわけにはいかない。私自身が墓なのだから。

死者に対するさまざまの伝承や祭祀を、昔の人々が作りたくなった理由を実感しながら、その一つにたりと溺れず、かといって無理に逆らいもせず、方便として使うものは使う。そんな一週間を通り過ぎました。

「何人もの坊主と喧嘩したからイヤだ」と言っていた父。きっと同じく実感として、死と生についていろいろの感じを覚えていたのでしょう。

公に説を立てて語りつづけると、本質を見失ってしまうような。宗教よりもプリミティヴな、人間という存在がもっている実感だけをよすがに、生活を続けていく。

公に語ってしまったら、ただ自分から逃げていく結果にしかならない部分を大切にして。